最後の日

 最後の日の近く、母がひと句切りずつ口移しに教えて、いくども復唱させた。「ラケダイモンというのは、スパルタ人のことなの……二千年も前に、スパルタの兵隊が、何百倍というペルシャの軍隊とテルモピレーというところで戦争をして、一人残らず戦死しました。その古戦場に、こういう文章を彫りつけた石の碑があったというんです……スパルタ人は偉いわね。あなただって、負けちゃいられないでしょう」 母は親子二人のギリギリの最後を、歴史のお話と掏りかえて、夢のような美しいものにしようとしている。「いよいよ死ぬんだな」とつぶやき、自分の死ぬところをぼんやりと想像してみた。眼の下の磯や、断崖の上から、親と子が抱きあったり、ロープで身体を結びあわしたりして、毎日、いく組となくひっそりと海に消えて行く。あんな風に母と手をつないで死ぬのだと思うと、すこしも悲しくはなかった。 夕焼けがして、ふしぎに美しい夕方だった。母が六尺ばかりの麻紐を持って、太郎を洞窟の外へ誘いだした。「多勢の人にみられるのは嫌でしょうから、外でやってあげます」 首を締められて、一人で死ぬなどと考えたこともなかったが、あきらめて、母の気にいるように、うれしそうに身体をはずませながら、けわしい崖の斜面をのぼって行った……。 婦警が迎いにきて、いつもの刑事部屋へ連れて行った。板土間のむこうの、一段高い畳の敷いたところにヨハネという綽名のある教師がいた。沖縄人で、サイパンにいるときは砂糖黍畑の監督だった。太郎が膝を折って坐ると、ヨハネはいつもの調子でネチネチとやりだした。太郎は神妙に頭を垂れたまま、板土間の机で書類を書いている警官の腰の拳銃を横眼でながめていた。「あのピストルとおなじピストルだ」 洞窟にいるとき、海軍の若い少尉が胴輪のついた重い拳銃を貸してくれたっけ。「お前は女の子のセーラー服を着て、銀座で花売りをしていたそうだ」 とヨハネがいった。

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